ヒゲ
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万物の根源は何か?
プロタゴラスの少し前、古代ギリシャでは5人の自然哲学者が台頭していました。
以前の投稿で万物の根源については詳しく書いているのでこちらをご覧ください。
その自然哲学者の一人であるデモクリトスは、自然観察から既に、万物の根源は原子である、というところまでたどり着いていました。
それを踏まえ、古代ギリシャの民主制について解説していきます。
この記事の目次
人間社会に完全は無い
紀元前5世紀:ギリシャ(アテネ)
日本で言えば縄文時代後半の話です。
その頃古代ギリシャでは民主制が発展していました。
日本ではまだ狩や猟生活で、まだ米作りすら始まっていないので、この時点で日本よりかなり進んでいたことがうかがえますね。
民主制ということで、人々が政治に参加し始めていて、最下層の市民達も、発言権を強めるようになりました。
民主主義といえば日本もそうですが、一人一人が一票ずつ持っていて、一人一人の国民が政治に対しての考え方を持っていて、投票によって運営を行うというイメージです。
政治的指導者になるには、民会や裁判で大勢の人々を説得する必要があり、雄弁であることが不可欠となりました。
人間として秀で卓越していること。
民主制アテネでは徳とは雄弁(才能)のことであった。
つまりアテネの政治的指導者は徳があったと言えます。
日本の道徳的な意味とは違うので注意です。
ソフィストの登場
知恵(ソフィア)のある人、知者のことをソフィストと言いました。
彼らは職業的教師として生計を立てていました。
自らを「徳の教師」と標榜し、説得的な弁論を行うための知識や技術を教え出していました。
ここから、「フィロソフィア」、つまり「哲学」というのがだんだんと深く広がっていったということになります。
弁論の目的
民主主義なので、結局は国民を説得できた人が政治的なリーダーになるので、弁論の目的は人々の説得だと言えるでしょう。
しかし、ただ説得することだけを目指すと、真実そのものよりも、人々に真実と思われることに関心が向けられることになりがちです。
このソフィスト達が出てくる前までは、自然観察の中から、真理そのものを見つけようとしていたわけですが、ここにくると、それを相手に真実だと思わせることに関心が移っていったというわけです。
その代表的なソフィストが、、
プロタゴラス(Πρωταγόρας)
プロタゴラスは、「人間は万物の尺度である」と言いました。
万物の尺度は水でも火でも数字でも原子でも無く人間だといったわけです。
人間の思惑を超えた客観的・普遍的な真理を否定します。
物事がどうあるか、個々人がどう思うかによって決まるとする主観主義・相対主義の考え方に移っていきました。
人間一人一人によって真実・真理は違うということで、「人間は万物の尺度である」といったわけです。
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量子論と関係?
*ここからは少し抽象的で難しい話です。量子論の説明はかなり長くなるのでここでは省いていますが、例を出してわかりやすく書いたつもりです。
これは一般的には否定的な意味でとられることも多いかと思いますが、僕はこれはすごく真理をついているのではないかなと思います。
なぜなら、今これだけ科学が発達し、量子論というものが発達してきていて、結論から言いうと、絶対的なものはなくて、全ては観察者の影響を受けるということが分かってきています。
例えば原子の周りの電子というのは位置を特定することができなくて、その観察によって結果が変わってしまうという性質があります。
人が観察するということそのものが、その対象物に影響を与えてしまうというものです。
例えば量子論では、「水の温度は正確には測ることは出来ない」と言われています。
なぜかというと、水の中に温度計を入れると、その温度計の温度が水に影響を与えてしまうので、本来の水の温度は測ることが出来ないからです。
それと同じで、何かを観察すると、観察するというそのものが、エネルギーを与えてしまうので、結局全てのものは正確には捉えることが出来ないということです。
だから人によって原理・現象というのは違って見えて当然であり、この宇宙の中には絶対性というものは存在しないというのが量子論です。
極論ですが、文章で言うと、納得できないんですが、観察者がいないと言うことは、すなわちそれは起きていないと言うのが量子論の結論です。
ではなぜそのような不可思議な結論を招くのかと言うと、それは言葉というものには限界があると言えるからです。
言葉というのは抽象度が低く、もっと抽象度の高い物事を説明することができないので、その言葉の限界というのが、量子論の結論というのを言葉で言い表すことができない。
よってどうしても矛盾が起きてしまい、よくわからないという現象が起きます。
つまり、観察結果というのが物事・事象に全ての意味を与えていくという感じで、観察があったら、結果が変わっていくということです。
なので結局、人によって見えている事実というのは変わってくる、ということで、一人一宇宙という言い方もしますが、一人が、一つずつ情報宇宙を持っているということです。
物理宇宙は、何個でもあると言うわけではなく(マルチバース論(多次元宇宙論)というのもありますがここでは触れません)、地球が2つや3つあるというわけではありませんが、情報宇宙、すなわち一人一人が、それぞれ観察する物事に影響を与えながら、見えている宇宙が変わってくるということです。
そしてこのプロタゴラスの「人間は万物の尺度である」というのは、かなり通づるところがあると思います。
哲学においては、否定的に見られることが多いですが、僕はすごく真理を得た考え方だなと個人的には思っています。
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人間と社会に目を向ける
話がそれましたが、ソフィスト達は、神とか自然よりも、人間や社会に目を向け、伝統にとらわれずにソフィスト達は論じました。
自然がそれ自体で存在する絶対性を持っているのに対して、法は、民族、時代によって異なるため、人間が創りだしたもの。相対的であり、人為的であると強調しました。
哲学とは神を排除して生まれたものです。参考に。
ソフィストが招いた混乱
ソフィスト達の活動というのは、教育的、啓蒙的な意義もあったが、道徳や法律の基礎にある善・悪や正・不正などの区別も絶対的な根拠を持たないとするソフィスト達の主張は、人々の価値観に混乱をもたらしました。
これも哲学では一般的には否定的にとらえられますが、僕は個人的にはこれは絶対的に排除できないんじゃないかと思います。
なぜなら、これは善でこれは悪。とかこれは正しくてこれは正しくない。というのは無いと、僕自身は思っているからです。
例えば、人の死はよくないのかということで言えば、「死」というものに意味を持たせるのは、人間の解釈でしかなく、ある人は死は次のステージへの旅立ちと考えるかもしれないし、あるいはその人の死が、残っている人たちに対して、何らかのポジティブな意味を与える場合もあるからです。
親しい人の死は、人生を変えてくれるのです。
僕は昨年、親友とも言えるべき友人を亡くし、とても辛い思いをしましたが、それは僕にとって、より人生について考えさせてくれる機会をあたえられ、今の新たなライフワークがあるのです。
一般的に死を忌み嫌うというのは、ある意味価値観の押し付けであり、レッテルであり、善悪と同じでソフィストのいうように、絶対的な根拠は無いのでは無いかと、僕は思います。
全ての出来事は、ポジティブな面もあれば、ネガティブな面もあり、それが釣り合った中立のものなので、その中立なものの中から、ネガティブなりポジティブなりを、意味付けしていくのは、各人が違うわけです。
ここでは解釈の仕様によって幸せに生きられるという人生哲学を書いています。参考までに。
人を殺してはいけない。それは今の日本では常識でありますが、事実として、70年前なら、神風特攻など、いかに多くのアメリカ人を殺すかということを目指していたわけです。
よって確かに、善悪や正誤というものは、時代、民族によって異なるものであると。
だから日本人がイスラムの人を見て、これは善でこれは悪と、絶対的には言えないわけです。
それは日本人はイスラムのことを全然理解していないからです。
そうなった時に、哲学でいうこのソフィスト達は、混乱を招いたわけですが、あながち間違いでも無いのかなと、思ったりしています。
完全な秩序
完全な秩序というのは、神が全ての事象であるというところから始まり、それを排除して哲学というのが生まれ、自然というのが完全なる秩序を持っているというところまで進んだわけです。
しかし、僕たちが生きる「人間社会には完全は無い」のではないか。
「人の主観や、民族、時代による」のではないか。
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