
「麹塵」と書いて「きくじん」と読む——この読み方を知っている人はそう多くないでしょう。平安時代、この色は天皇が纏うとされた禁色のひとつでした。黄褐色の「黄櫨染」が「晴れ」の色なら、麹塵は「褻(け)」、すなわち日常の色。コウジカビの青みがかった塵の色に由来するこの名は、かつて「山鳩色」とも呼ばれ、光の当たり方で二つの顔を見せる神秘の染色でもありました。
この記事では、麹塵という言葉の語源・意味から、禁色としての歴史的位置づけ、黄櫨染との関係、そして染色の不思議まで深掘りします。
日本の伝統色を網羅した基幹記事「日本の伝統色77色一覧」もあわせてご覧ください。
麹塵(きくじん)とは
麹塵は、灰みがかった黄緑色の伝統色です。モスグリーンに近い渋い緑で、現代のカラーコードでは #6e7955(※資料により異なる)に相当するとされます。
見た目には「地味な緑」と感じるかもしれませんが、この色こそが平安時代の天皇の装束に深く刻まれた、日本史上最高の権威をもつ色のひとつです。
超難読語:なぜ「きくじん」と読むのか
「麹塵」という漢字は、音読みすれば「こうじちり」「きくじん」と複数の読み方が生まれますが、色名としては「きくじん」が正解です。
漢字の意味は:
- 麹(こうじ):酒・醤油・味噌づくりに使う糸状菌(コウジカビ)の総称
- 塵(ちり):ちり・埃・粉末
つまり文字通りには「麹黴の塵のような色」。字面を見て「きくじん」と読める人はほとんどおらず、黄櫨染(こうろぜん)・浅葱色(あさぎいろ)と並ぶ伝統色の超難読語のひとつです。
語源・成り立ち
麹塵という名の起源は、コウジカビ(麹黴)にあります。
コウジカビは、米・麦・大豆などの穀物に繁殖すると、表面に青みがかった灰緑色の粉状の菌体(胞子)を生じさせます。その色——うっすらと緑がかり、灰みを帯びた不思議な色——が「麹の塵」と呼ばれ、この色名になりました。
「菊塵」(菊の花から散る埃)という字を当てた例も見られますが、これは後世の当て字または混同とされ、本来は「麹(こうじ)+塵(ちり)」が語源です。
また、この色の別名として「青白橡(あおしろつるばみ)」という呼び方もあり、少なくとも10世紀中頃の『西宮記』には麹塵と青白橡が同色として記されています。コナラやクヌギの実(どんぐり)で染めた橡色(つるばみ・渋い黄褐色)の青みがかった変化形として認識されていたことがわかります。
禁色としての地位——なぜ天皇だけの色になったのか
平安時代、衣服の色には厳格な序列がありました。天皇・上皇・貴族のそれぞれが着用できる色が法令で定められており、特定の色は「禁色(きんじき)」として一般の臣下には許されませんでした。
麹塵はその禁色のなかで天皇が纏う色とされました。ただし黄櫨染とは異なり、麹塵は皇太子・上皇、さらに天皇から特に許された六位蔵人なども着用を認められた例があります。
天皇の袍(ほう・束帯装束の上着)には二種類の禁色がありました。
← 横にスクロールできます →
| 色名 | 読み | 色調 | 用途 |
|---|---|---|---|
| 黄櫨染(御袍) | こうろぜん | 黄褐色系 | 晴れの正装(大儀・朔日・節会) |
| 麹塵(御袍) | きくじん | 灰みの黄緑 | 褻(日常)の袍(賭弓・弓場始など) |
このように、黄櫨染が「晴れ(ハレ)」の天皇を象徴するなら、麹塵は「褻(ケ)」——日々の天皇の姿を包む色でした。いずれも原則として一般の臣下には許されない色であり、天皇の存在そのものを可視化する色だったのです。
黄櫨染との違い——「晴れ」と「褻」の二色
麹塵を理解するうえで欠かせないのが、黄櫨染(こうろぜん)との比較です。
黄櫨染は、赤みを帯びた黄褐色。令和の即位礼でも天皇が身につけた、まさに「日本最高の晴れの色」です。
麹塵は、青みがかった黄緑色。賭弓(かけゆみ)・弓場始(ゆばはじめ)などの「小儀(しょうぎ)」——比較的略式の行事で着用されました。
この対比はそのまま日本文化の根底にある「ハレとケ」の世界観に重なります。非日常の晴れには黄の気配を帯びた暖色、日常の褻には緑の気配を帯びた寒色——天皇の装束はその日本的感覚を色で表現していました。
なお、麹塵の袍は単に「青色(あをいろ)の袍」とも呼ばれました。古代日本語の「青(あを)」は現代語より広い範囲をカバーしており、緑・青・灰緑を含む「クール系の色」全般を指したためです。麹塵はその「古代の青」の系譜に属する色でした。
山鳩色という別名
麹塵にはもうひとつの名があります——「山鳩色(やまばといろ)」。
山鳩(ヤマバト)はキジバトの別名で、背羽の部分にある黄みがかった渋い灰緑色が麹塵に似るとされ、この呼び名が生まれました。
「麹塵」という漢字が難解すぎることもあり、日常的な場面では「山鳩色」と呼ばれることも多かったようです。現代でも着物や伝統工芸の文脈で「山鳩色」という表現は生きており、麹塵の別名として流通しています。
コウジカビの塵の色から始まり、山の鳩の羽の色へ——ひとつの伝統色が二つの自然物の姿を宿しているのは、日本語の色名の豊かさを象徴しているように思えます。
陽光で変わる染色の神秘
麹塵の最も不思議な特徴のひとつが、光によって見え方が変わることです。
染色の記録によると、麹塵は「室内では薄い茶色がかった色に見えるが、太陽の光のなかに立つと緑が浮かぶように映える」とされています。
これは麹塵の染色技法に由来します。織物の場合、縦糸を青(緑系)、横糸を黄で織ることで生まれる混色効果により、見る角度や光量によって異なる色味が現れます。蔭(かげ)では暖かみのある落ち着いた色、陽(ひ)のもとでは鮮やかな緑が顔を出す——その二面性が麹塵の深みを生んでいます。
天皇の日常の袍が、光とともに姿を変える染色だったという事実は、単なる色の規定をこえた、日本の染織文化の高度さを伝えています。
まとめ
麹塵(きくじん)は、コウジカビの塵の色に由来する灰みの黄緑で、平安時代の天皇が日常の袍に纏った禁色でした。
- 読み:きくじん(超難読語)
- 色:灰みがかった黄緑(モスグリーン系
#6e7955) - 別名:山鳩色(やまばといろ)、青白橡(あおしろつるばみ)、青色(あをいろ)
- 位置づけ:天皇の「褻(け)」の袍。黄櫨染(晴れ)と対をなす禁色
- 語源:麹(コウジカビ)の塵のような色から
- 染色の特徴:室内では薄茶色、陽光の下では緑が浮かぶ
「黄櫨染は知っている」という人も、「その対になる色が麹塵だった」と知ったとき、平安の天皇の日常がほんの少し、具体的な色として見えてくるのではないでしょうか。
日本の伝統色を網羅した一覧はこちら:日本の伝統色77色一覧|和色の読み方・HEXコード・由来まとめ